50年前の論文撤回は不要だった? ノーベル化学賞受賞者Wittigが「再現不可能」として葬った反応に新たな光

科学論文の撤回に関わるニュースを掘り下げて調査し報道するブログ Retraction Watch は、多くの科学不正・捏造問題を明らかにしてきたことで知られています。そのRetraction Watchに今月25日、「50年前の論文撤回を撤回すべきか?」という異色の記事が掲載されました。しかも50年前の「撤回」の当事者は、1979年のノーベル賞受賞者で「ウィティッヒ反応」に名を残すドイツの化学者Georg Wittig (1897-1987) という超大物とあれば、興味をそそられる人は多いのではないでしょうか。

Angewandte Chemie International Editionこの記事の基になったのは、ETH Zurich (チューリッヒ工科大)のPeter Chen教授らが今年7月に Angewandte Chemie International Edition (ACIE) で発表した、不活性オレフィンのシクロプロパン化反応についての論文です。オレフィンのシクロプロパン化にはSimmons-Smith反応が工業的に広く用いられますが、反応に伴う大量の廃棄物の生成が難点で、それに代わる新規な反応の開発には高い需要があります。

Chen教授らによる反応では、リチオメチルトリメチルアンモニウムトリフラートがメチレンドナーとして用いられます。研究の過程でChen教授は、自分たちの独創と考えていたこの反応と非常に近いものが、Wittigによって既に1960年に報告されていたことを知ってがっかりすると同時に、Wittigの報告がほとんど知られていないことに興味を引かれ、遡って経緯を調べました。Wittigの報告は、臭化テトラメチルアンモニウムを用いたシクロヘキセンのシクロプロパン化反応に関するもので、論文はVolker Franzenを共著者として Angewandte Chemie にドイツ語で掲載されました。

実験を行ったFranzenは、ハイデルベルクにあったマックスプランク医学研究所の若手化学者で、当時ハイデルベルク大学有機化学科長の地位にあったWittigと接点を持ったようです。しかしWittigは、1964年になって Justus Liebigs Annalen der Chemie European Journal of Organic Chemistry の前身)に発表した論文(Franzenは共著者とならず)の中で、1960年に報告した結果は確認できなかったとして事実上撤回を行いました。教え子のDietlinde KraussにFranzenの実験の追試を行わせたところ、いくら条件を変えても再現できなかったのが原因でした。その後、Wittigらの1960年の報告は化学界から忘れ去られ、同じアプローチを試みる化学者は皆無でした。

この報告は、Franzenの偽りによるものだったのか、あるいはFranzenの実験は本当に成功したのに、何らかの理由で再現に失敗したのかどちらでしょうか? 50年以上も昔にFranzenの実験室で起こったことを正確に知ることはできませんが、後者の可能性は十分にあるとChen教授らは主張します。Chen教授らは、ACIE論文とは別に、WittigとFranzenによる発見とその撤回の経緯を詳しくまとめ、Israel Journal of Chemistry (IJC) でエッセイとして発表しました。

  •  Chen教授のACIE論文   Künzi, S. A., Sarria Toro, J. M., den Hartog, T. and Chen, P. (2015), Nickel-Catalyzed Cyclopropanation with NMe4OTf and nBuLi. Angew. Chem. Int. Ed., 54: 10670–10674. doi: 10.1002/anie.201505482 (本文を読むにはアクセス権が必要です)
  •  同教授のIJCエッセイ   Künzi, S. A., Sarria Toro, J. M., den Hartog, T. and Chen, P. (2015), A Case for Mechanisms. Isr. J. Chem.. doi: 10.1002/ijch.201500041 (本文を読むにはアクセス権が必要です)

Israel Journal of ChemistryChen教授らが注目するのは、Franzenの実験中に微量のニッケル不純物が混入した可能性です。Chen教授らが開発した反応では、特定の量のニッケル触媒が不可欠です。一方Wittigらが報告した反応はニッケル触媒を用いていませんが、実験に用いられたリチウムにはニッケル不純物が混じりやすいことが知られており、その他にも微量のニッケルが混入する余地があったとChen教授は指摘します。有名なZiegler触媒の発見のきっかけとなったのが微量のニッケル塩の混入からだったように、ニッケル不純物は化学史の中でしばしば思いがけない発見を生んでいます。

なぜ50年もの間、Wittigによる撤回に疑問を投げかける化学者が現れなかったのでしょうか。Chen教授は、当時Wittigは非常に高名な化学者で、実験の腕にも定評があったので、彼が再現不可能として否定した以上その通りだろうと誰もが思ったに違いないと推測します。

IJCエッセイの中でChen教授は、今回の発見から得られた3つの教訓を挙げています。

  1. 古い文献の中には宝石が埋もれていて、それを掘り出すにはオリジナルの文献を読む必要がある
  2. ネガティブな結果が意味することをよく考える必要がある。何かが失敗したからといって、絶対に成功するはずがないとは限らない
  3. 教授の言うことを批判的に疑え。科学者の育成に成功したと言えるのは、権威者の言葉にかかわらず論理的思考力と創造性を発揮して自分自身の意見を持てるようになったとき。科学とは自己修正するもの
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